努力をすること

こんにちは。

私が一番苦手なことは、努力をすることです。

私は自己評価が低いので、他人に言われて気付いたのですが、なまじ要領よくいろいろなことができてしまうために、学生時代まで、ただ生活することだけに対して努力をする経験があまりありませんでした。

さらに、芸術系の活動や、運動、理系科目など、苦手なことに直面しても、強制されなかったこともありずっと逃げていたため、努力して克服する経験を積むことがないままここまで来てしまいました。

私個人比で努力した部類に入る大学受験は、頑張ったと言えるのかもしれませんが、本格的に勉強を始めたのが高校3年の春に部活を引退した後であり、1日10時間も勉強した日はないですし、全然頑張っていないというのが私の印象です。

 

大学時代のアルバイトでも覚えることは多かったですが、ワインの知識をはじめとして完璧に仕上げることはしませんでした。そこに、完璧主義かつ減点方式で物事を考える性格が相まって、全然努力をしていないというのがこれまでの人生に対する自己評価でした。

その後、他人からよく頑張っていたと言われることは何度かありましたが、信じることもできずにいました。

さらに、明確な自分の努力不足で失敗することがあったので、自分は努力ができない人間だということを認識するようになりました。

 

しかし、そのことを認識した後に友人と話した際、考えを改めさせられる機会がありました。

 

その際言われたことが、「努力ができない人だということを言い訳に自分に向き合うことから逃げ続けている」ということです。

 

そのことを言われるに至った詳細な流れは割愛しますが、自己評価が低いにもかかわらず、プライドは高く、かつ完璧主義であるために失敗したくない思いがあり、行動をできていないという私の現状を説明したのちの出来事でした。

この現状を踏まえて私の行動を紐解くと、友人曰く、「失敗することで傷つけられるであろう自分のプライドを守るために、完璧主義と努力ができない性質を言い訳に自分と向き合い、さらに努力することから逃げている」と説明できました。

このことを言われた時も、「努力できないからー」と言い訳がましく反応をしていましたが、そこで勝負から降りているその態度だと指摘され、完全に指摘の通りで、自分では処理しきれず、その時一緒にいた別の友人に解散後泣きついてしまいました。

 

しかし、友人との話の甲斐もあり、その日言われたことは非常に腹落ちし、気持ちを新たに3月中旬から過ごしていました。

ただ、ここ最近、時間の経過もあり、その時に得られたものを忘れかけてしまっており、さらに、指摘される前と変わらない行動をしてしまっているのではないかという思いもあり、この1か月ほどをまた無駄に過ごしてしまったなと感じています。

自分に向き合うことを避けるために、この記事の執筆も遅れてしまいましたが、公開を機に改めて自分に向き合い、プライドを折る作業を再開したいと思います。

記憶が曖昧になり、話のまとまりもなくなってしまいましたのでここで終わりにします。

 

最後に、私が逃げていることを気付かせてくれた友人、そして、私が1対1で怒られる時間に加えて解散後に泣きついた私が納得して落ち着くまで励ましてくれた友人、2人ともありがとうございました。

それでは。

○○したいと思う人は損をしている!?

こんにちは。

私は一時期人を誘う行為、ひいては何かをしたいという感情についてある疑問を抱いていました。

それは、もし誘ったものの相手がその誘いに乗ってこなかった場合、誘うという行為をした人のみが損をするというものです。

この話は抽象的でわかりづらいのでもう少し詳しく例を示します。

例えば、AさんがBさんを2人での遊びに誘ったとします。しかし、何らかの理由でBさんがその誘いを断ったとします。この時、「Aさんの遊びたいという感情」と「Bさんの遊びたくないという感情」という本来同価値であるはずの2つの感情のうち、後者が優先されたことになりますよね。

このことは、こう言いかえることもできます。○○したいと考えた人の意見は無視されていながら、○○したくないと考えた人の意見が採用されている。そして、○○したいと考えた人の○○したいという欲望は満たされないが、○○したくないと考えた人の○○したくないという欲望は満たされる。

つまり「○○したいという感情よりも○○したくないという感情の方が優先され、○○したいと考えたことが実現されなかった時に損をするのは○○したいと考えた人だけである」と。

次に、AさんがBさんを何らかの理由でいじめたいと考えていたとします。そしてBさんはいじめられたくないと考えていました。この場合は、いじめという感情では片づけられない道徳的な価値基準もあり、いじめが許されないことは当然理解できますし、いじめがあってはならないと思いますが、Aさんの感情よりBさんの感情が優先されたという点ではAさんは蔑ろにされたともいえると考えました。

 

このように、すべての人が平等でその人の考えることはどんな人であっても社会に悪影響が及ばない限り尊重されるべきという社会にありながら、何かをしたいと考える人よりも、何かをしたくないと考える人の意向の方が優先され、さらにその不利益を被るのは何かをしたいと考えた人だけであるということに対して、納得できる説明を自分の中で思いつくことができませんでした。

 

しかし、先日納得のいく説明ができる例が思いつきました。

それは、Aさんを工場やお店、Bさんを消費者に例えるものです。

より詳しく説明しますと、例えばAさんは工場を持っていて新しい製品を作ったとします。しかし、Bさん(この例の間以下消費者)はその新しい製品が0円であっても全く必要としていませんでした。

この際、Aさんの作る新しい製品がいくらであったとしても、消費者が需要することはないので、Aさんはその製品を作れば作るだけ損をします。

ここでAさんが新製品を製造しても売れなかったために損をしたからと言って、消費者にその損をした分の補償を求めることはできません。それは、Aさんが消費者が欲しいと思える商品を作れなかったからであり、消費者に責任はありません。

これと同じことが人を誘う場合にも起こっているのだとするとすんなりと理解することができました。

 

つまり、AさんがBさんと何かしたいと思っても、Bさんがしたくないと思っている場合、AさんはBさんが欲しい製品を産むことができておらず、それが買ってもらえない(誘いに乗ってもらえない)のはAさんの責任であり、Bさんが責任を負う必要性はありません。

したがって、人を誘った責任を取る(誘いが成立しなくてもそのことによる損を受け入れる)必要があるのはAさんのみだと言えるのです。

 

このようなプロセスを経て私の疑問は解決したのですが、このことを相談した友人のうちの1人がこのようなことを言っていました。

それは、「せっかく誘ってくれたんだから断る場合は謝るなりフォローアップをしてあげたほうが優しいし、誘った側のダメージも小さいし、今後の関係も丸くなりやすいよね。」というものでした。

これを聞き私は、もし自分が誘われてそれを断るときは絶対に一言付け加えることを心掛けようと思いました。がんばります。

 

それでは。

言い訳をしない

こんにちは。

私は、極端に結果重視なのであまり目標などを立てない人間なのですが、2023年はある目標を持って生活していました。

それは、タイトルにある「言い訳をしない」というものでした。

それを目標にするきっかけとなった出来事があります。

それは、当時やっていたアルバイトで年の離れた先輩に言い訳をしてばっかりだという旨のことを言われたことです。

その時私は何かミスをして、それに対して原因などを聞かれていたのですが、それは、なぜ起こったのかが知りたいのではなく、謝罪やその後の改善を求めているということに当時の私は気づかず、聞かれた通りミスの原因をその時辿った思考を基に説明しました。そして、言い訳をしてばっかりだという旨の言葉を言われました。

 

そして、2023年を言い訳をしないことを心掛けて生活していましたが、そのことを踏まえると、自分の発言にいかに言い訳が多いかを痛感しました。

しかし、言葉に出す言い訳をしないように意識したものの、肝心の行動は改めることはできませんでした。その結果、何かの理由を思い浮かび、「あ、これ言い訳だ」と気づきはしても根本的な行動は変わっていないため、言い訳をしないで済む表現を使って済ませるということを繰り返していました。

 

言い訳を言わないようにしていたものの、言い訳ばかり生まれる状況で1年を過ごした中で、なんと、それを変えるチャンスを最近得ました。ただ、この話はまた今度。

 

それでは。

何をしたらいいのだろう

こんにちは。

私は今悩んでいます。

何をしたらよいのだろうか。何をしたら自分で満足ができるのだろうか。

 

実際がどうだったかはさておき、私の感情的には、これまで私は、自分のやりたいことを押し通した実感があまりなく、他人、特に親に文句を言われないような選択を取り続けていました。その結果、大きく踏み出すことはせず、だらだらと怠惰な日々を送り続けています。

それは、(明確に認識したのは)中学時代の出来事がきっかけとなり自分のしたいことをすることが悪だと考えるようになったからです。そのことをきっかけに自己主張ができなくなり、だいぶ改善はされましたが、人を誘うことや頼み事に未だに抵抗が大きくあります。

しかし、自分の行動を振り返ると、やりたいと思ったことや(自分の思考的に)合理的だと思えたこと以外に熱中できなかったり、感受性が乏しいという別の問題も関わってきますが間違っていると考えた他人の意見に聞く耳を持たなかったりと、つくづく自分勝手だと思わされることが多々あり、振り返るとそれが原因で起こった人間関係の失敗も多くあります。

そこで、自分勝手な行動を改めようと心がけますが、行動の受け手に意思を伝えられていない場合や全く改まっていない場合が多く、袋小路に入り込んでいる現状があります。

 

話がそれてしまいましたが、自分の行動や決断に自信が持てず、他人の顔色を窺ってしまうのをやめるにはどうしたらいいんでしょうか。自立するしかないんですかね。

嫌いな言葉

こんにちは。

みなさんは嫌いな言葉ってありますか?

悪口が嫌いだったりいろいろと人によってあると思います。

いくつあるのかを数えたことはないので数は知りませんが私にもあります。

それはなにか。

それは、「正解の人生」という言葉です。

 

自己啓発系のものだったり、友人などと人生を振り返った時などに出てきがちな言葉だとは思いますが、私は好みません。

 

ではなぜそう考えるのかというと、時間は不可逆で、その選択をした時点に戻って人生をやり直すことはできないからです。

もし時間を巻き戻して動けるのならば、やり直しができるので人生が失敗だったといってもいいでしょう。ですが、現実にはそうはいかず、どこかでした選択は一生ついて回ります。もし、ある発言をして、その発言に誤りがあったために撤回をしたとしても、その発言をしたという事実は残り、受け手に与えた印象は緩和されることはあれどその事実は残ります。

ある時点に戻れない以上、ある選択1つを取って人生が失敗だったと言うのは考えるだけ無駄だと私は考えます。

 

では、そういったことを言いたいときになんて言うのか。

それは失敗の選択をしたと言えばいいでしょう。二択なり三択なり、その中から誤った選択肢を採ってしまった。それだけでいいのではないでしょうか。

少なくとも私はそう考えるように心がけています。そして、採った選択を少しでも良いものにするべく努力する必要があり、なかなか難しいことですが念頭にはおいて生活することを心掛けています。

あれこれ考えているその瞬間が一番時間を持っている時なのですから。

 

以上のように思っていることを書いてみましたが、現実というのは面白いもので、私は何度も自分の人生を後悔しています。わかっていても実行できない。人間って難しいですね。

怠惰は裏切らない。この言葉だけを信じて生きていきます。

 

それでは。

はじめまして

はじめまして。fraternalgumと申します。

日々の出来事を記録していきたいと思い始めました。

よろしくお願いいたします。

 

名前の由来は、ぱっと思いついた英単語のfraternalとよく食べているガムを合わせました。

 

現状で書こうと思っているネタは、半年以上前の台湾への旅行記と何かと何かがあります。

大体7-8年ぶりのブログで、感覚を取り戻すまで時間がかかるかとは思いますが、温かく見守っていただけると幸いです。

 

改めて、よろしくお願いいたします。